瑕のない空

情報技術の勉強したり、読書したり、駄文を綴ったりする予定 だいたい虚構

星の中の孤独

 

 入社してからの新人研修は毎日が楽しい。現時点で自分に出来ない事が分かり、それが努力と習熟によって今後、間違いなく出来るようになる実感がある。

認識出来る世界が広がる感覚の楽しさを、知らない人間はいないだろう。もし理解出来ないと感じるならば、子どもの頃を思い出してみると良い。

 

 けれどもやはり今、僕は深い孤独を感じている。

 僕は同期の中で最下位を覚悟して入社した人間だ。理由は語らないが、その背景には僕の経歴と実績がある。

 だが実際の所は違っていた。僕は同期入社の中で平均以上どころか上位層に位置している。(詳細は秘すが定量的に評価可能)。

 大学の偏差値と関係なく、日本の学生(特に文系)という者はあまり勉強をしない。

「アルバイトや遊びを通してビジネスで通用させるには低レベルなソフトスキルを磨いている」というある種の偏見は統計的には正しさを備えているようだ。

 一応理系院卒の最終学歴を持つ以上、2年分の優位性があって当然ではある。

 けれどもこの業界に来る人間は、意識高い系と揶揄されつつ、その意識に匹敵する圧倒的実力を兼ね備えた者だと思っていた。

 多忙かつストレスフルな研究生活の片手間に読書や2次元に逃げつつも、要求された勉学を何とか短い時間で仕上げた僕のような人間では叶うはずもないキラキラした物語の主人公みたいな人物。

 そういう人も確かにいる。それは救いだ。でも大多数は違う。

 彼らの実力は明らかに不足している。それにも拘らず外交的で自己評価が高く、僕は吐き気さえ感じて始めている。彼らには責任感という物が欠如している。

 

 責任感という言葉はその心理的効果によって2種類に分類できると僕は考えている。

 1つは自分を集中させる責任感で、真剣さをもたらす物。もう1つは人の心理に重責を加え、その心を壊そうとする圧力だ。

 責任を感じる状態には利点も欠点も存在する。

 当然、両者は完全に分離しうる物ではない。感性の違いもある。

 同じ状況でも両方の責任感を覚える人もいれば、両者共に感じ得ぬ人もいる。重責を覚えにくく、徹頭徹尾真剣であろうとする人もいるだろう。

 

 僕は普段「世界の評価関数は状態量ではない」と哲学的な主題を掲げながら、同時に「成果が全て、成果の無い過程は無意味だ」などと一見矛盾する事を平然と口走ったりしている。

 けれども僕の責任感は正直強くない。少なくとも重圧を感じ取る機能は摩耗して失われている。

 そういう僕が人の責任感を批評するのは誤りであるようにも感じているが、やはりこの心を偽る事は出来ない。

 

 貴様らは恐ろしくはないのか。貴様らに与えられる金額という名の責任。それが意味する地獄に。

 

 専攻上僕にはSEやPGの知り合いがいる。皆、今の僕から見れば専門的な技術に詳しい優秀な方達だ。

 コンサルというのは単価が高い。単価と言うのはプロジェクトを行う際、クライアントが単位時間あたりに従事者に払う金銭的対価の事だ。

 アサイン比率などもあり単純比較は出来ないが、一般的にコンサル会社新人の単価はSEの2倍、PGであれば下手をすると4倍近くになる。

 それだけの金額を取る以上、相応しい価値を与えねばならない。

 その恐ろしさを君達は考えもしないのか。

 

 チームの力は本当に大切だ。

 人類史は組織化の歴史であったし、第2次世界大戦は各国の物理的資源のみならず組織化能力の優劣を問う総力戦だった。

 規模が大きな事を行う為には組織の力が絶対に必要だ。

 

 けれども哀しい事に、僕は今のチームメンバーの半分をもう既に信頼していない。残りも一人は実力不足。本質的に信頼できるのは日本語非ネイティブのたった一人だ。

 だから僕は独りよがりな人間に近づいてしまう。

 

 そして全体に対して僕は孤独を抱えている。彼らに対する嫌悪。それを紛らわし忘れ、ストレス無く交流していく為に、僕は無意識に子どもの如く振る舞いながら何とか乖離を耐えている。不適合。その結果は明らかだ。ある日、突然糸が切れたように寡黙となり、己の力の向上へ向け狂気の努力へ取り組み始める。

 逃走が如き努力は狂気にも似て、僕を更に深い孤独へ駆り立てる。暗く、厳しく、他者の心を踏みにじる冷徹な男。本当は明るく楽しく、人の心を傷つけず牧歌的な中で生きたいと願いながら。

 

 仕方が無いじゃないか。

 仮説・検証能力、枠組構築力、文章読解。僕は高い実力を持っている。作業速度に関しても、大して努力せず最初からある程度速い。天才に到達するには低すぎる実力でも、自らの優位を至る所で哀しいほどに示してきた人生。

 

 僕は崖から突き落とされた男だ。そこから夥しい血を流しながら這い上がってきた人間だ。

 毎年の様に精神的危機を迎えながら病に陥る事無く、その度に別人の如く脳は変わり、思考力は著しく向上した。一文一文に思考を巡らせながら大量の本を読み、己の哲学を深めた。

 僕にとって思索は息を吐くように自然な事だ。

 だからこそ困難な課題の解決策が思い浮かぶし、脳が自己制御を行え無いほどに疲労した際はとんでもない暴走を起こす。

 

 「世界の評価関数が状態量で無いのなら、その終末において決定される世界の価値は物質の最小単位それぞれが辿ってきた経路の集積によって決定される。(中略)ならば人間個人の価値は文明史、或いはより広大な観点において如何に多くの(人類の文化が自己判断する)素晴らしき影響を他に与えたかにおいて定められる」こうした信念と哲学的考察から導いた人生の目的を僕は恐らく達成することは出来ないのだろう。

 そこまで超長期的尺度で物を見なければ生きてこられなかった僕は本質的に人類不適合者なのだ。矛盾を抱える現実と自己に耐え難き思いを抱き、美しき空想へ逃れるように耽る。それが分裂系の一である僕の宿命であり限界だ。きっと僕が疎んずる者達の方が最終的に成果を残すだろう。彼らの明るさこそが或いは僕には永遠に届き得ぬ最大の武器なのかもしれない。

 

 それでも僕はその限界を越えようとあがき続ける。不適合と孤独の中で戦い続けるしか無いんだ。

 

 幸い、僕は素晴らしい人達にも出会う事が出来た。

 深く関わる人間はやはり選ぶべきだと思う。

 己の確たる哲学のみを頼りに生きているのではこれまでと何一つ変わらない。

 僕のこの感覚を伝え、更に自身の経歴と思いを隠さず開示する。

 そうやって生きていくのだ。

 

 僕は今、本当に毎日が楽しくてしょうがない。

 

 ――人は追い込まなければだめだ。苦しみと喜びが共に待つ強い生にむけて追い込んでやらなければだめだ。それ以外、生きるに値する人生はない。

 ――苦悩をも引きずっていく強い生活に向かって彼らを押しやらなければいけないのだ。これだけが意義のある生活だ。

              サン=テグジュペリ『夜間飛行』より(同文異訳併記)