随筆 教養の日々が終わる
大学院の修了が決定し、ふとした時に過去を振り返ることが多くなった。
過去と言うのはどうにも人を感傷的にするらしい。僕の感傷は狂気に近い所があるが、その波も過ぎ去って、冷静と言うものを少しずつだが取り戻しつつある。
思うに、大学院を含めた六年間の学生生活は教養の時期だった。専門的な勉強と研究は勿論やったしやらされたが、それ以上に世界史や哲学によって眼を開かされる事が多かった。
様々な文明の興亡、プラトンの理想国家、ニーチェの超人思想――こうしたものは一度拠り所となる価値観の全てを失った僕が新たな価値観を己の中に築き上げる過程で強固な建材の役割を果たしてくれた。
僕にとって教養の価値は疑いようもない。教養について語るとき、僕は常にその擁護者の立場を取っている。
サブカル的「教養」や人格の成熟を伴わぬ知識の羅列に対してはマシュー・アーノルドの著作「教養と無秩序」を借りて批難し、金銭獲得手段としての教養の無意味を告げる者がいれば実用的能力の優位性を認めるがこれについても反論はする。
社会常識の発展として教養を位置付ければ年収や社会的立場の上昇に伴い文化資本として価値が生じてくるだろう。また先人の思考や経験を追体験可能という点で見れば影響力の強い判断を下す際に教養の一部は明確な価値を持つことになる。
実用的能力をハードスキルとソフトスキルに分解する時、教養は特に後者の一部に関わる事になる。
このように価値観醸成への影響を語らずとも教養の意義は説明できる。
けれども「人間的完全性の追求」ではなく実用的能力の手段として教養を語る場合は必ずハードスキルとの調和が求められる事になる。
ハードスキルとは試験や成果物で容易に評価可能な技能を指し、体系的な専門知識やプログラムスキル等が含まれるものである。
ハードスキルに特化しソフトスキルが壊滅的な技術者が職人と崇められる一方で技術バカの烙印を押される事があるように、教養のみに特化し実行能力や専門性を疎かにする人間は実務の場で無能と侮られる事だろう。
就職活動において企業が下した評価をみるに僕の実務能力の現状と成長可能性は学生の次元においては比較的高い位置に存在しているらしい。
けれども社会の波濤を越えてきた人たちから見れば未熟以外の何物でもない。
僕の武器は曖昧だ。他の新卒とかわりなく。
専門的な能力と成果は最高の環境で集中した人間に及ばない。
人と和やかに会話する力も輝かしい人達と比べれば平凡だ。
世界史や哲学、心理学、軍事学や細かい分野として行動遺伝学なども学んだが、それらを第一として行っている専門家や趣味人には決して叶わない。
現状の僕は単なる物識り人間の一人でしかない。
ゼネラリスト志向にしても、そこに到達する為には核となる専門分野が必要だ。
そして研究を通して身に付けた専門性を帯びるハードスキルを僕は結局投げ出したのだ。
修士程度の専門性といえ、そのまま半導体や太陽電池関係の技術者を選べば、或いは始めから情報分野を選択していれば困難は少なくなっただろう。
けれども迷いも後悔もない。
今僕が心配しているのは自分の熟慮の結果ではなく熱意の欠如なのだ。
個人的に思うに広範な知識の欠点は万事を相対化する事で熱意を失わせる事にあると思う。
これが成長か老化かは分からないが、僕の熱意は間違いなく減ってきている。それは性格検査で示されるビックファイブやMBTIを応用したと思わしきマイナビの適性検査にも映されていた。
数年前と比較して努力傾向を示す誠実性が減少していたり、努力主義―マイペースの指標が右シフトしたいたりする。
思えば研究の推進も熱意ではなく義務感が支配的だった。
その合間に取得した基本情報技術者と簿記二級にしても、記録していた勉強時間の総計は100時間に届かなかった。簿記二級に至っては全くの素人であった。研究の合間に時間があったにも関わらずストレスに負け読書やゲームに逃げている。
そんな付け焼き刃であるからして両者ともに既に知識の大半が幽界へ流れ出てしまっている。
どうしたら熱意を取り戻す事が出来るだろうか。どうしたら子どもが遊ぶように無邪気に眼前の課題に取り組む事が出来るのだろうか。
硬直した自分の身体、答えは未だに見えそうにない。
人はその人生において選んだり選ばれたり、選ばなかったり選ばれなかったりする。受験や恋愛、就職活動もそうだ。僕は自分を選んでくれた相手の役には出来る限り立てるような存在でありたい。
同時にそうした思いが作る責任感から強烈に逃れたい思いもある。
いずれにせよ参画する事を決めた以上、後は気合と根性の力で乗り切るしかない。
泥臭い行動と精神的耐久力には自信がある。
多分忙しくなったらこんな事考える余裕もなく流されてくんだろうな。