論理と感性の輪舞曲①
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私は人生の核として情報分野を自らの意志で選択した。
だが心の中に僅かな迷いを抱えているのも事実である。それはどちらも漠然とした夢である。地理・歴史の研究者と小説家という具体化されていない子供じみた願望が明確な目標の前に明滅し、私の意志を濁らせる。二束の草鞋や副専攻といった甘言が私の魂を溶かしていく。
だから私は引き裂かれる自己を保つ為、迷いを自らの手で書き表さねばならない。
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振り返れば、私の青春は論理と感性の輪舞曲だった。
頭は良くも悪くもなく、身体は強くも弱くもなく、誰かを酷く泣かせた事もあれば、他の誰かに酷く泣かされた事もある。小学校時代の私は語る処のない子どもだった。
情報技術に対する原体験はこの時期に遡る。
当時の私はインターネット上にある一つのブラウザゲームに熱を上げていた。プレイ人口数十人程度の小さなRPGゲームはチャットルームとプレイヤー同士の協力要素を備え、当時としてはとても斬新な遊戯であったように思う。
切欠は忘れたが、ある日私はその攻略サイトを作ろうと思い立った。Yahooジオシティーズでスペースを獲得し、敵モンスターや装備の情報を纏め、htmlのタグ一覧と睨み合いを演じながら少しずつテーブルを作っていく。
客観的には誰にでも出来る他愛のない作業である。ただ粗削りながらも形を帯びたそのサイトを数名のプレイヤーが参照し役立ててくれた事に私は単なる完成以上の純粋な喜びを抱いたのだった。
その後、私は自分でゲームを作ろうともした。けれども直ぐに躓くことになった。
賢くはない私にはJavaが全く分からなかった。それでも当時既に詳しいコードを知らなくてもゲームを作る事が出来る幾つかのツールがオンラインにもオフラインにも存在していた。
しかし、それを用いて私が作り出したのは創造性の欠片もなく、模倣さえ満足に行えぬ劣化品であった。
恐らくその後も根気よく続ける事が出来ていれば何らかの成果を得る事が出来ただろう。だが当時の私には知性も創造性もそれを獲得するのに必要な根気も欠けていた。
ここから先、大学に至るまで私は情報技術という分野から常に遠くに存在する事になる。
けれどもこの時の挫折こそが後に私が辿る事になる論理と感性の萌芽であったように思う。
[3]
中学時代には良い思い出が一つもない。虐めを受ける事は無かったが当時の学校生活に対し私は適応する事が出来なかった。それ以前より留まっていたインターネット上の小さな居場所も自らの年相応の軽薄浅慮とそこに付け込んだ悪意による荒唐無稽や策略が重なり失う事になった。
人との間に居場所を持たぬ少年少女の例に留まらず、私は幾つかの世界に逃避する。
その一つは偏見を排した確たる理論の世界である数学(当時は疑いなくそう思っていた)であり、一つは周囲の現実を越えて伸びる地理と歴史の広大な世界であり、一つは現実世界から解き放たれた幻想小説の世界である。
これら全てが私の思春期の支えとなった。一方で私は幻想小説によってみがいた感性が浮かばせる情景の数々を地歴・数学によって研ぎ澄ました知性によって次々と切り裂いていく事となった。
論理と感性の相克が歪な螺旋を描きながら私の青春を形作っていく。その中心で私は常に人格が引き裂かれんばかりの苦痛を耐えていた。けれども論理という名の知性と感性を高めた事で私は人との交流を問題なく行えるまでに成長したのだった。社会への適応力を獲得する一方で、皮肉にも私は自己に対する適応力というべき何かを失ったのだった。
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そうした形で訪れた頭脳発展の高校時代も結局は悲惨な結末を辿らざるを得なかった。歪な形で拡大した認識力に精神が耐えきれなかったのだ。それは最終学年の八月末に訪れた。その詳細を語る事に私は今もなお深い躊躇いを抱いている。理由はそこに含まれる政治的な問題であり、私が自らの論理と感性を駆使しその問題を述べる事が直接的には数名、間接的には大多数に対する容赦のない攻撃になるからである。私はそうした行為を好んではいない。よってただ抽象を語るに留めるとする。
それは純粋に信じていた社会が根底から覆される絶望であった。
無理に具体的な類似を求めるとすれば太平洋戦争敗北後に人々が体感した価値の転換が近い。
あの時から私はたった一人戦争の敗者となり孤独の夜を歩き始めたのだった。
<未完>